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文明は全ての土地にフェアではない。映画「ウインド・リバー」感想

グーグルアースでアメリカを見ていると、ストリートビューなんかがある都市部はほんとに少なくて、ほとんどの土地はいくら拡大してもなんだかわからない荒野だってことがわかるんですけども。

 

今作「ウインド・リバー」の舞台はそんなアメリカの辺境オブ辺境、ワイオミング州の中にある先住民保留区を舞台にした、重々しくも乾いた叙情性を感じる社会派映画でした。

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この記事では前半はこれから観る人のために押さえておくと理解に役立つ背景情報などを、後半はネタバレも含めた感想を書いていきます。

 

作品情報

主演はジェレミー・レナー、そしてエリザベス・オルセン

ジェレミー・レナーは「アベンジャーズ」でホークアイを、そしてエリザベス・オルセンも「アベンジャーズ」でスカーレット・ウィッチを演じており、奇しくもアベンジャーズ共演コンビとなっています。

監督・脚本はテイラー・シェリダン。メキシコ国境での壮絶な麻薬戦争を描いた「ボーダーライン」という傑作で一躍有名となった人物ですが、監督は今作が初。

 

あらすじ

ワイオミング州にある先住民保留区「ウインド・リバー」。極寒と厳しい自然にさらされる広大なこの地で、野生生物局のハンターとして働くコリー(ジェレミー・レナー)が、雪原の中で少女の死体を発見するところから事件が始まります。

死体はコリーとも顔見知りの先住民の女子高生。

周囲10キロは人家も施設もない雪原だというのに、少女は靴も履かずに歩き続けた末に死んでいました。

コリーと市警察のベンは殺人事件と見て、この地域の殺人の管轄であるFBIへ連絡。

しかしやってきたのは経験の浅い女性捜査官ジェーン(エリザベス・オルセン)一人だけでした。

検死の結果レイプの痕跡も見られましたが、死因は零下30度の中で走って息を思い切り吸い込んだことによる肺の破裂と判明。

この検死結果ではFBIは他殺と認めず動けません。

しかし、ジェーンは頼りなくはあっても非情ではありませんでした。

ジェーンは応援なしで事件捜査にあたることを決意。

コリーも手伝いを求められ、それに応じます。

ただし、コリーは少女の父親に、犯人を見つけたら即座に殺すことを密かに約束していました。

新米捜査官と熟練ハンターが雪の足跡を辿る先に待つ真相。

それは現代社会に見捨てられた土地が抱える深い闇でした。

ウインド・リバー」とは?

ウインド・リバー」は、アメリカのワイオミング州内にある先住民保留区の名称。

雪に閉ざされた極寒の地であり、産業もないため失業率も高く、若者はドラッグにおぼれ、自殺率も群を抜いて高い、未来を奪われたような土地です。

面積は日本の鹿児島ほどもあるのに警官は6人しかおらず、犯罪や野生の猛獣から自衛するために住民はかなりの重武装を自前でしています。

アメリカ先住民はこのような不毛の土地に押しやられ、なすすべもなく日々を生きています。

複雑な警察の管轄制度、広すぎる土地などの影響で殺人やレイプの検挙率が異常に低く、先住民の女性の失踪が続発しているにも関わらず、その統計はとられていないといった体たらくであることが近年になって判明しました。

実質的に連邦政府からも州からも見放されている無法状態であることが、映画の最後に示唆されています。

 

ネタバレあり感想

ここからは物語の結末にも触れて感想を書いていきます。

 

 

監督であるテイラー・シェルダンは、「ボーダーライン」「最後の追跡」という自身が脚本を担当した過去作と本作を同一テーマの3部作と位置付けており、そのテーマとは「アメリカの辺境」を描くというものでした。

今作で描かれるウインド・リバーの地は、ほとんど町と呼べるものもなく、ほとんどが雪と岩で覆われた荒野です。

その神話じみた荘厳な光景は観客を引き込みますが、雪国に暮らしたことのある人間なら、その灰色がかった光景のもたらす寒さ冷たさ、厳しさもまた肌身に感じることができるでしょう。

そんな人を拒否する雪原の真っただ中で、よりによって裸足のまま死んでいた少女。

ミステリーとしていっきに引き込まれる導入ですが、この遺体の状況がそのまま、監督が今作に込めたメッセージにつながっていくことが真相と共に明らかになります。

少女は資源掘削のためウィンドリバーを訪れていた恋人マットといるところをマットの同僚たちに襲われ、レイプされた上に恋人も殺され、一人脱出して逃げている途中で力尽きたのでした。

特筆すべきは、この少女ナタリーが裸足のまま10kmもの距離を雪原の中で歩き続けていたということです。

このことがクライマックスでも象徴的に扱われます。

 

少女を襲った連中は何者なのか?

先住民居留地からは石油などの資源が発見されることがありますが、それらは掘削権を持つ者のものとなり、住民には全く恩恵がありません。

土地には資源掘削のための人員が外から派遣されてきますが、今作の犯人達もまたそのような連中です。

彼らもまた娯楽も何もないこの土地に辟易していたところを、美しい先住民の少女をみかけ、ほとんど軽い気持ちで手にかけたのでした。

警察権がややこしく手がまわりづらいこの広大な土地では、人の倫理はほとんど原始のレベルに堕ちているといってよく、強姦・殺人に対する倫理的な抑制が働かない無法地帯となっています。

この資源採掘と少女強姦・失踪は、ひたすら奪われ続ける先住民たちのあまりに身近な現実です。

主人公コリーもまた、おそらく似たような状況で娘を殺されています。

しかしこの地では、司法は犯罪を裁いてくれない。

コリーは劇中「この世界がフェアだなんて嘘をつくつもりはないが、世界と感情なら感情をどうにかする」という旨のことを言っていますが、このウインドリバーに住む多くの先住民は、おそらく同じような、奪われる側としての諦観と絶望の中で暮らしているのでしょう。

全編を貫く厳しい雪と岩の風景と、奪われる人間達の耐え続ける顔という重さが、静かに画面に横溢します。

そんな中で、希望ともいえないくらいだけれど小さな光となったのが、ジェーンの単独捜査でした。

巌のように揺るがない苛酷な現実に小さな風穴をあけるかのような、組織を無視した型破りなジェニーの捜査。

未熟な捜査官に肩をすくめながら、それでもその姿にわずかな光を見るように、ベンやコリーも協力します。

捜査の果て、犯人グループと銃撃戦となりますが、コリーの神業的な狙撃もあって犯人グループはほぼ壊滅。

この銃撃戦シーンは、この映画があくまで娯楽映画として成り立っている大きな要素です。リアルでいて爽快感もあり、一瞬の判断ミスが死につながるという緊迫感にあふれたものでした。

犯人グループの最後に残った一人、少女をレイプした張本人をコリーが連れ去り、山中深くで解放し、少女と同じように裸足で逃げてみろと命じます。

あくまで自然に任せ、少女と同じような状況に犯人を置くという選択をしたのです。

その理由は次の台詞に込められています。

「お前がレイプした少女は10kmも裸足で雪原を走って逃げた。勇敢だった。戦士だった。お前も同じく逃げてみろ。100mももたないだろうが」

この台詞が、重苦しい現実の中に監督が差し込みたかったささやかな光のすべてでしょう。

主人公コリーは、「この土地では強いものが生き弱いものが死ぬ。そこに偶然はない」という信念を持っています。

ではレイプされ死に追いやられた少女は弱者だったのか。

きっとそんなことはない。

状況に負けて倫理を捨て、他人から奪いとっていく連中よりも、奪われながらも必死で生きようとした人間のほうがずっと勇敢で強い。

そのことを証すためにも、ラストでは被害者と同じ状況で犯人を走らせ、同様の死に方をさせたのでしょう。

犯人は100mどころか、数mも進んだところで肺を破裂させて死にます。

事件は終わり、コリーは仇討ちの報告を少女の父にしますが、それで胸が晴れることもなく、ひたすらまた重い現実が続いていくだけです。

それでも、現実に戻る前に少しの間だけといって座りこみ、死んだ娘を想う父親。

同じ父親として、それに付き合う人種の違う友人。

彼らの後ろ姿の上を、冷たい風が吹きわたっていく。

ささやかな希望ともいえないそんな光景が、乾いた叙情をもたらして映画は終わります。

「このウインドリバーでは女性失踪の統計がない」という戦慄のテロップとともに。

 

娯楽映画として、社会派映画として

テイラー監督は、今作を上質なミステリーとして、ときには骨太なガンアクションとしての娯楽の外枠に収めながらも、今確かに存在する辺境の現実を観客に見せつける社会派映画として完成させました。

僕などは日本人としてそれでもまだ対岸の出来事と見てしまいますが、現地アメリカ人がこれを見てなおこの「辺境」問題から目を背けることができるとは思えません。

アメリカ人にとって不都合な真実は多々あるでしょうが、決して全ての人々の倫理観にふたをできるものではないはず。

ただ知られていなかっただけのそういった問題を、大きな才能がとりあげることでムーブメントが起こることもある。

テイラー・シェリダンという人物はそういうフィクションを、あくまで娯楽作としてのレベルを保ったうえで世に出せる非常に稀な人物として、今後最も重要なストーリーテラーの一人であると思いました。