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【ネタバレ感想】映画「ターミネーター:ニュー・フェイト」過去作の呪縛に向き合った結果は?

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引用元:https://www.imdb.com/

『ターミネーター:ニュー・フェイト』(『Terminator: Dark Fate』)

2019年、アメリカ。

監督:ティム・ミラー 脚本:デヴィット・S・ゴイヤー、ビリー・レイ、ジャスティン・ロードス 原作:ジェームズ・キャメロン他 製作総指揮:ジェームズ・キャメロン 音楽:ジャンキーXL 撮影:ケン・セング 

出演:リンダ・ハミルトン、アーノルド・シュワルツェネッガー、マッケンジー・デイヴィス、ナタリア・レイエス、ガブリエル・ルナ

 

「ターミネーター」シリーズの時系列はかなり混乱しており、「2」以降の作品は展開が違う並行世界と化している。まずは「2」→「3」「4」の流れで、スカイネットによる「審判の日」は避けられず、ジョンがレジスタンスの指導者となる時間軸。次に「新起動」の時間軸で、サラとカイルの出会いからすでに別の世界線と化しているため、番外編と言える。また、ドラマシリーズ「サラ・コナー・クロニクル」も「2」までは世界線を共有するものの、その後は「3」「4」と「ニュー・フェイト」とは無関係のシリーズとのこと。そして今作「ニュー・フェイト」は、「2」の直接の続編となっており、「3」以降とは世界線を異にする作品である(ここが少しややこしい)。今作は「2」の「正統続編」と謳われ、その名に恥じずサラ・コナー役にリンダ・ハミルトンが再登板というサプライズで臨んでいる。というわけで、もし過去の「ターミネーター」シリーズを見たことがない、という方には、とりあえず「1」「2」という奇跡の傑作シリーズだけでも押さえておけば、次に今作を見れば物語は理解できるはずだ。

それでは、傑作「ターミネーター2」の後を受けた「正統続編」たる「ニュー・フェイト」の出来映えはどうだったのだろうか。

メガホンを撮るのは、子供時代に「ターミネーター」シリーズの薫陶を受けたというティム・ミラー。「デッドプール」シリーズの大ヒットも記憶に新しいが、もともとはCGアニメ畑の人だったらしく、今作でもVFXの使い方が非常にうまい。脚本・製作総指揮は原作者でもあるジェームズ・キャメロン御大が自ら努め、「正統続編」であるという説得力に一役買っている。出演は、主役のメキシコ人女性ダニーにナタリア・レイエス、ダニーを守るため未来から来た「強化人間」グレースにマッケンジー・デイヴィス、そして今なお闘い続ける老女戦士サラ・コナーにリンダ・ハミルトンが復帰し、シリーズのアイコンであるアーノルド・シュワルツェネッガー演じるT-800も再登場する。今作の敵である液体金属・金属骨格両立型ターミネーターREV-9にガブリエル・ルナが扮し、「2」のT-1000に劣らない不気味な笑みとアクションでダニー達を追跡する。このガブリエル・ルナのREV-9の演技がとてもいい。登場当初は学習が不十分で、人間の表情の真似がぎこちなく、不自然な笑みを顔に張り付けている感じがとてもよく出ていて非常に不気味。しかし高速で人間的なふるまいを学習していき、劇中でも目に見えて人間らしいふるまいをするようになっていくが、人の目が外れた瞬間に殺戮機械の顔に戻るのがとてもうまい。人を守って共に過ごすうちに人らしいしぐさを覚え、共感のようなものが芽生えたT-800とは対照的に、REV-9はどんなに人間らしくふるまえてもあくまで殺戮機械でしかない。決して殺気を漲らせるわけではないが、どこか理解不能な「モノ」の気配が随所に見え隠れする。

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引用元:https://www.imdb.com/

・「2」を殺して、新たに始めるという決断

今作は、「2」の直後、T-1000とは別に派遣されていたT-800によってジョン・コナーが殺されるという衝撃のシーンからスタートする。筆者は最初、これはサラの見た悪夢だと思っていて、現実の出来事としてその後の話が始まるとかなり混乱した(存在するはずのない、若いサラと当時のままのジョンの新作カットという映像を見せつけられた混乱もある。とてもCG映像とは思えなかった)。

実質的に「2」の物語でのジョンとサラの勝ち取った結果をナシにしてしまうような衝撃的な舵取りとなるわけだが、そうまでして描きたかった「続編」とはどんなものであったか?

「ニュー・フェイト」は、お話の構造としては「1」と非常によく似ている。もちろん意図してのことと思うが、未来から送り込まれたターミネーターと、ターゲットを守るため送り込まれた未来の戦士、という構図が繰り返さることになった。今回送り込まれた人類側の戦士グレースは、半人間半機械ともいうべき「強化人間」であるが、メンタリティは完全に人間であるため、やはり「1」のカイルの立ち位置が最も近い。最大の共通点は、未来において自分を救ってくれた人間を、過去で救うためにやってきたという点。「ニュー・フェイト」は、ほぼそのまま「1」におけるサラとカイルの物語なのだ。では「1」との違いは何か。最大の違いは、「1」「2」で得たレガシーを活用している点だろう。具体的に言えば、サラとT‐800の存在だ。「ニュー・フェイト」は決して「1」のリメイクではなく、あくまで同一時間軸にある「続編」であるという最大の証明が、この二人のレジェンドキャラクターなのだ。「1」では、絶望的な逃走劇の緊迫感と、その中でのカイルとサラの交流が主眼となった実にシンプルな筋立てだった。今作も「1」をなぞるのならば、主人公ダニーと戦士グレースの逃走劇と交流が主眼となるはずだったが、そこに「過去作キャラ」であるレジェンドが登場し活躍する、というワクワク感をどうプラスしていくか、というのが今作最大の課題となったはずだし、この作品の存在意義でもあるはずだ。

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引用元:https://www.imdb.com/

結果として言えば、今作のその2つの要素、「ダニーとグレースの逃走劇と交流」「サラとT‐800の登場と活躍」は、レジェンド2人が主役のルーキー2人を食ってしまうことになった。少なくとも筆者に残った印象はそうだった。とにかく圧倒的な安定感と存在感で画面を席巻するリンダ・ハミルトンとアーノルド・シュワルツェネッガーを目にして、逃走劇に緊張感は抱きにくい。またこの二人の挿話にも時間が割かれることによって、ダニーとグレースについて掘り下げる尺が相当食われてしまっているように感じた。この作品は、敵ターミネーターREV-9も含めれば、計5人もの主要キャラクターが登場し、3時間の枠内でそれぞれのドラマを万遍なく語ろうとする。その結果として、よく言えば全体としてはよくまとまった、しかし悪く言えば結局何がしたかったのかぼんやりとしてしまう、そういうドラマになってしまっていたように思う。「敵からの逃走」という相当シンプルな筋立てであり、またシリーズが苦しんできた「1」「2」の呪縛に、あえてプロットを酷似させて正面からぶち当たる、という意気は気持ちいいのだが、そのために「2」を殺し、しかも過去作を活用しすぎたがために新たな2人の物語に徹しきれなかった、という点がとても残念だ。

しかしながら、アクション映画としての映像的な野心はすさまじく、これはぜひブルーレイでレンタルなどして是非メイキングを見てほしいのだが、特に空中の輸送機内での無重力アクション、そこから連続する落下中の車でのアクション、さらに着水した水中での攻防と、ほとんど通常の撮影が不可能なシチュエーションの連続を超巨大セットと超緻密なVFXで実現していく様は、これひとつで1本のドキュメンタリーを作れそうな見応えだ。敵ターミネーターの液体金属と金属骨格を生かした殺陣もアイデアに溢れており、また老兵サラの熟練の銃さばきも気持ちがいい。そこにシュワの「守るターミネーター」としての無機質で献身的な戦闘が加わる。グレース、サラ、T‐800、REV-9とそれぞれのスタイルが高速でクロスする高度な戦闘シーンが展開され、異能バトルとしては非常に満足度が高い。このレベルの戦闘シーンと、絶望的な逃走劇というプロットはそもそも食い合わせるのが無理というもので、物語が豪華な戦闘シーンの割りを食ってしまったとも言える。味方が頼もしいほどホラーは怖くなくなるものだ。

今作は続編を念頭において作られ、実際にジェームズ・キャメロンの頭には次作の脚本があったらしいが、興行的に次作は難しいという話になっているらしい。ティム・ミラーの作り出したアクションはとても素晴らしいだけに、次作も期待したかったところだが、それは別作品でということになりそう。

 

【ネタバレ感想】小説「ゴーストハント2 人形の檻」小野不由美ホラーの原型を目撃する傑作

 

               

『ゴーストハント2 人形の檻』

著者:小野不由美

角川文庫

以下、シリーズ1巻と2巻のネタバレが含まれる内容ですのでご注意ください。

 

小野不由美のオカルトミステリーシリーズ「ゴーストハント」の第2巻。前巻では高校の旧校舎をめぐる不可思議な現象をめぐり、SPR(渋谷サイキックリサーチ)の渋谷一也(ナル)をはじめ、滝川法生(ぼーさん)、松崎綾子(巫女さん)、エクソシストのジョン・ブラウンといった個性的な霊能者たちがそれぞれの方法論で解決をはかり、そこに主人公である女子高生谷山麻衣が巻き込まれていく様が描かれた。1巻では、ポルターガイスト現象を巡り、それが果たして本当に超常現象であるのか、それとも現代科学で説明可能な現象なのか、というところから調査と実践(除霊)、議論を重ね、結果としてはある女子生徒がESP、つまり超能力によって引き起こした現象であったことが判明した。この1巻によって、シリーズに登場する主要なキャラクター達が紹介され、またこのシリーズが超常現象アリのXファイル的なホラーミステリーシリーズであることを読者は理解する。

この1巻を受けて、2巻ではついに本格的な霊による怪異が描かれることになる。屋敷が立ち並ぶ郊外の高級住宅街、その中の古い洋館に近年引っ越した一家が見舞われた奇妙な現象の調査依頼を受けたナルは、1巻でも見せた高級機材による緻密な科学的手法によって怪異の正体を探ろうとする。調査にはぼーさん、巫女さんこと綾子も呼ばれており、また事態の性質からエクソシストであるジョンも加わるが、かつて例のない不可思議で強力な霊のふるまいに彼らは翻弄される。次第に悪質さを増し、その本性を露わにしだす悪霊と、古くから屋敷を知る老人によって語られる、「子供を食う家」の戦慄の歴史。当初はどこかのどかさも感じられた調査は、次第に一家の子供礼美の命がかかった壮絶な戦いへと変わっていく。

今巻では早い段階でこれが霊による怪現象であると確定されるが、しかしあくまで「理詰め」によって霊の目的と正体を調査していく様が描かれるのが「ゴーストハント」の特徴だろう。現代科学が解明できない現象を引き起こす霊だが、そこには確かに彼らなりの「理屈」があり、決して出鱈目に行動を起こすわけではない。その理屈と、彼ら悪霊の目的が一体何なのか、その正体とは。これらがわかって初めて除霊は成功する。よって本作はきわめてミステリー的な手法で描かれたホラーとなっている。

調査の果てにようやくこの霊が無数の子供の霊であり、8歳くらいの子供を仲間に引き入れるために命を奪ってきたことが判明する。しかしそれだけではなく、その陰にもう一つ、邪悪な「黒幕」の存在までもが見え隠れする。これら全ての正体を解明し、礼美を救うためにナルが家の歴史をひたすら遡って調査していく様は、やはり小野不由美の傑作ホラー『残穢』の原型とも言える「土地の怪異」のモデルをはっきりと見ることができる。

当初の想像をはるかに超えるスケールと邪悪さを持つ怪異の全貌が徐々に明らかになっていく過程はホラーとして充分に恐ろしく、またそれらを丹念に解き明かしていく過程はドキュメンタリーやノンフィクションのような知的興奮にもあふれている。前作「旧校舎怪談」の結末はやや拍子抜けといった感想をもったが、それも今作を準備するためと思えば納得の出来映え。筆者は今回の文庫化で初めてシリーズに触れることになったが、夏にホラーや青春ミステリーを読みたい気分をしっかり満たしてくれるので、3巻以降の続刊も楽しみに待ちたい。

【ネタバレ感想】映画『怪談』格調高い映像美で立ち上がる小泉八雲の「異界」

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                                   (c)1965 東宝

『怪談』(1965年、日本)

監督:小林正樹 音楽:武満徹 美術:戸田重昌

 

小泉八雲「怪談」を原作に、「黒髪」「雪女」「耳なし芳一の話」「茶碗の中」の4つの怪異譚からなるオムニバス作品。

特に「雪女」「耳なし芳一」は日本人なら誰もが知る物語であろうし、シナリオもよく知られているものに忠実に作られている。

監督は、6部作にもなる長編『人間の條件』など社会派作品を中心として撮る小林正樹。音楽は武満徹が手掛け、尺八や琵琶など日本古来の楽器と前衛音楽が絶妙にミックスした、この世ならぬ場所を想起させるようなBGMが要所に横たわる。

美術の戸田重昌が中心となって手掛ける、細部までこだわりにこだわり抜いて作られた精巧で壮大なセットは広大な工場を改造したもので、日本古来の怪異譚の世界をフィルムに現出すべく計算されつくした映像を撮るために3億という巨額の製作費が費やされた。

今作はカンヌ国際映画祭審査員特別賞にノミネートされるなど国外からも高い評価を得る一方で、3時間という長い上映時間、国民におなじみでもあり斬新さに欠けるシナリオ、全編通して静かに進み、わかりやすい盛り上がりにも欠けるため興行的には奮わず、製作費を回収できなかった製作会社「文芸プロダクションにんじんくらぶ」が倒産してしまう。

しかし未だこの映画の影響を公言するクリエイターは多く、例えば「ミッドサマー」のアリ・アスターは今作にも影響を受けたと言及している。

https://www.cinematoday.jp/page/A0007109

巨費を投じ、ビジネスの枠からはみ出るまでにこだわり抜かれ構築されたその映像世界では、古来日本で語り継がれてきた「あの世」と「この世」のひと時の交わりが、現世にふと紛れ込んだ幽玄なる「異界」の様子が描かれている。

・恐怖のためではない「ホラー」

本作で描かれるのは、「雪女」「耳なし芳一」などいずれも世に知れた物語であるが、オムニバス4作に共通しているのは「この世ならぬもの」との交流の物語であるという点だろう。まだ現代ほどには「あの世」が遠い世界ではなく、ゆめまぼろしではあっても迷信や絵空事ではなかった時代を舞台に、登場人物は怪異と出会い恐れおののくが、同時にそれに(無意識に)どうしようもなく魅せられ、惹かれてしまう様が描かれてもいる。また怪異(雪女以外は死霊)のほうでも、生前の未練からか、異界へと紛れ込んだ生者に惹かれ、ここにあの世の者と現世の生者とはひとときだけ心を交わすことになる。

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                                   (c)1965 東宝

恐ろしくも魅惑的な、怪異が作り上げた「異界」において交歓する生者と死者は、しかしいずれは離れなければならず、その時、現世に帰る生者は必ず代償を払わなければならない。「黒髪」においては正気と若さを、「雪女」では理想の妻を、「耳なし芳一」は両耳を、それぞれ帰還の代償として支払わなければならなかった。(雪女は、その代償を猶予するために沈黙の誓いを課したともとれるが、主人公にとって本当の「異界」は妻の雪との幸せな日々であったともいえる)

4作目の「茶碗の中」のみが異色とも言える内容で、こちらはまるで現代のネットロアにも通じるような奇妙な怪異にはじまり、その怪異が時代を越えて伝染病のように拡大していく様も「リング」など現代的な怪談にとても近い。

怪異や異界を恐れるばかりでなく、どうしても惹かれてしまう古来よりの人間の深層心理と、惹かれた人間が陥る顛末を、緻密に作りこまれた映像で描きこんだ傑作。

『怪談』は現在(2020年7月)アマゾン・プライムビデオで見放題サービスで見ることができる。レンタルなどではDVDしかないため、高画質で本作を堪能できる機会は貴重。夏の夜に贅沢で美しい小泉八雲の「怪談」をぜひ楽しんではいかが。

 

 

 

 

【ネタバレ感想】ゲーム『The Last of Us part Ⅱ』〇〇〇編はなぜ必要だったか?

『The Last of Us part Ⅱ』(2020年、アメリカ) 

以下、ネタバレ厳禁とされている本作をネタバレ全開で語ります。プレイを終えた方に向けた記事ですので、プレイ中の方、プレイ予定の方は引き返していただいたほうが無難です。↓画像下からはじめます。

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引用元:https://www.playstation.com/ja-jp/games/the-last-of-us-part-ii-ps4/#about

賛否両論である。

それも無理からぬこととは思う。誰だって気持ちよく撃って倒した相手の名前を知りたくはないし、ましてそいつの友達や趣味やどんな冗談を言うかなんて知りたくはない。自分があっさり殺した犬がいかに賢く愛らしかったか、なんて知りたくない。このゲームはプレイヤーにゲーム内での「所業」を突きつける。ゲームであるということがここまで暴力的な機能を果たす作品がかつてあっただろうか。このゲームを前に反発するなというのは、ちょっと難しい相談ではないかとすら思う。極端な言い方をすれば、このゲームは敵を倒せば倒すほど、物語上の仕掛けによって自身が「罰される」ゲームなのである。気持ちよくゲームしたいだけのプレイヤーほど相性が悪い。かといって戦闘は極上に面白い。面白ければ面白いほど、自分の業を突きつけられる気分になる。こういった点が、ただ不条理な現実を忘れて前作のようなエリーとジョエルの絆の物語に浸りたかっただけ、というユーザーから煙たがられているようだ。

しかしながら、超傑作である。プレイヤーがどんなに重苦しい気持ちになろうと、その気持ちが重いものであるほど、それはこのゲームが傑作である証明なのだ。好き嫌いで言えば嫌いなほうだが、それはこの作品のクオリティを否定するものでは全くありえない。

語るテーマはいくらでも掘り出せそうな作品ではあるが、この記事では主に物語について、特に多くのレビューが述べている「アビー編はいらなかった」という感想について、反論というか、自分の考察のようなものを書いてみたいと思う。

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引用元:https://www.playstation.com/ja-jp/games/the-last-of-us-part-ii-ps4/#lg=1&slide=52

・なぜアビー編が必要だったのか?

結論から言えば、アビーはジョエルだからである。アビー編をプレイしていて、薄々感じた方も多いのではないだろうか。大切な家族を失い、失意から個人的な幸福より危険な任務や復讐を優先してきた来歴も似ているし、行きがかりから助けたレブを連れての旅路はそのまま前作のジョエルとエリーを彷彿とさせる。結果的にアビーはレブを助けるために仲間であるWLFを裏切るが、これも前作のラストでエリーを助けるためにファイアフライを多数殺したジョエルの姿と重なる。そもそもアビー編のプレイ感もジョエルのようなパワータイプのものであり、アビーはかなり意識してジョエルに寄せられたキャラクターだと感じている。

もちろんそれを知っているのはプレイヤーである我々だけであり、エリーにはそんなことを知る機会は最後まで訪れない。しかし構図として、エリーが追っていたのはジョエルであったとも言える。この物語はある意味では徹頭徹尾「エリーとジョエルの物語」でしかなく、その意味で間違いなく『The Last of Us』なのだ。

ここでエリーにとってジョエルがどのような存在であったかを考えよう。もちろんまず父親的な存在であっただろう。命の恩人でもあり、前作の長い旅路で心を通わせた親友でもある。一方で、今作において最も重いのが、ジョエルがエリーの免疫からワクチンを作ることを阻止したという事実だ。前作ラストにおいて、エリーからワクチンを作るにはエリーを死なさなければならないと知り、ジョエルは世界よりもエリーを選び、医師を含む多数の人間を殺してエリーを病院から奪い去った。今作ラスト付近で、この事件へのエリーの率直な気持ちが語られることになる。

「生きてたって証を残せたかもしれないのに、それを奪ったんだよ」

これが、ジョエルが世界と引き換えにエリーを選んだことに対する、エリーの気持ちだった。「生きた証」。犯罪を抑止する法律も警察もなく、荒廃し、危険が闊歩し、いつ死ぬともわからない日常で、人が「生きた証」を残すとはどういうことか。ここでのエリーの憤りは、決して「世界のために」とか「自分が犠牲に」といった綺麗ごとによるものではない。利己的なまでの自身の存在意義への欲求だ(エリーは同性愛者であり、愛する人と直接子供をもうけることもかなわない)。おそらくこの荒廃した世界では誰もがこういった「夢」を密かに抱き、しかし多くの場合それは叶えられず、犬死に近い最後を迎えていくのだろう。WLFの掛け声「生き抜く力を」「そして安らかな死を」という言葉には、この世界に生きる誰もに響く切実な祈りが込められているはずだ。そんな世界での価値観において最上に近い最期を迎える機会をジョエルは奪ってしまった。そして自分の命と引き換えに荒廃しつづけなければならない世界を背負わされてしまった。

エリーにとって、ジョエルは父であり、父とは多くがそうであるように、自身に重すぎる世界を背負わせた張本人だった。エリーはジョエルを憎んだ。それはジョエルへの愛情と矛盾しながらも両立してしまう感情だ。

「このことは一生許せないと思う。」「でも、許したいとは思ってる。」

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引用元:https://www.playstation.com/ja-jp/games/the-last-of-us-part-ii-ps4/#lg=1&slide=20

しかし、そういった屈託を抱えながら、それでもジョエルと共に生きていくことを表明した翌日、ジョエルはアビーに殺されてしまう。自身の憎悪と愛情の、これからの人生の指針を奪われたエリーは、アビーへの復讐を誓い追跡を開始する。エリーにとって今作の旅は失われたジョエルを追う旅であり、アビーへの憎悪は激しくはあるが本質ではない。決着をつけたいのは本当はアビーではなく、自身の中のジョエルである。おそらく最後の最後で、エリーはレブを必死で守ろうとするアビーとジョエルを重ね、そのことを悟った。「もう一度チャンスが与えられても、同じことをするだろう」というジョエルと、今目の前で子供を守ろうとするアビー。この瞬間のためだけに、アビー編はあったと言ってもいい。アビー編がなければ、ここでエリーが彼女らを逃がす意味がわからなくなってしまう。エリーは最後の夜にジョエルに告げた「許したいとは思っている」という自身の言葉によって、「ジョエルを殺す」ことだけは避けることができたのだろう。

全てを終え、帰宅したエリーを待つものは何もなかった。愛しい恋人も、可愛い赤ん坊も。アビーとの闘いで指を失い、ジョエルからもらったギターを満足に弾くこともできなくなった。ギターを窓辺に立てかけたエリーは、訣別するように歩き去る。エンドロールでは、ぎこちなくエリーとジョエルが声を合わせている。エリーはある意味で、ジョエルを本当に失うことで歩みだすことができ、許すことができたのではないか。復讐はあらゆるものを奪い、何も残さないからこそ。

 

【ネタバレ感想】映画『ハドソン川の奇跡』男の判断は奇跡か無謀か

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引用元:https://wwws.warnerbros.co.jp/hudson-kiseki/

『ハドソン川の奇跡』(2016年、アメリカ。原題『sully』)

監督:クリント・イーストウッド

主な出演:トム・ハンクス、アーロン・エッカート。

 2016年1月15日にアメリカで起きた実際の飛行機不時着事故がテーマの作品。ニューヨークのラガーディア空港発シャーロット行USエアウェイズ1549便が、離陸直後に鳥の群れとの接触(バードストライク)によりエンジン停止となり、チェスリー・サレンバーガー機長(サリー)と副操縦士ジェフ・スカイルズはとっさの判断によってハドソン川へ緊急着水を敢行する。サリーの操縦技術と数多の幸運によって大事故にもかかわらず乗員乗客155名全員が生還、この事故は「ハドソン川の奇跡」と呼ばれ瞬く間に全米へ知れ渡り、機長サリーはマスコミらによって一躍「英雄」とされた。ところが事故調査委員会はサリーの判断を疑問視。コンピュータによるシミュレーションによれば、バードストライク直後に空港に引き返せば無事に着陸が可能との結論が出たという。果たしてサリーの決断は誤ったものであり、英雄は一転して「戦犯」となってしまうのか。

 事故の当事者であるサレンバーガー自身の著書『機長、究極の決断』を原作に、クリント・イーストウッドがサスペンス仕立てに映画化。生死を分ける極限の事故、そしてその後の世間からの英雄視、事故委員会による追及と立て続けの状況変化にさらされていく事故の当事者を、機長サリー役トム・ハンクスと「ダークナイト」でおなじみアーロン・エッカートが演じる。

サスペンス仕立てとはいえ、世界的にも有名な「奇跡」の事故を題材にしているわけで、特にアメリカ公開においては事件の顛末そのものは多くの観客が承知したうえでの視聴を想定しているはず。そのうえで、主にプロフェッショナルとしてのサリーの、自身の判断と周囲の認識のズレによる苦悩、突然英雄に祭り上げられてしまった一市民としてのとまどいの様子を中心に映画は進行していく。緊張感漲る事故の最中のシーンと、調査委員会によるサリーへの追及のシーンが交互に挟まれる作劇は正解だと思う。冒頭に事故シーンを全て終えてしまっていたとしたら、後半がダレてしまったと思う。事故シーンではイーストウッド監督は実際のエアバスを購入して撮影にあてたという力の入れよう。

シナリオ面では、どうしても予定調和の物語となってしまうのは作品の性質上避けがたく、それでもやはり事故当時の極限の選択を迫られるシーンや、公聴会でのコンピューターシミュレーションへの反論など、全体として緊張感を保ったままの90分となっており、さすが巨匠というところ。2時間はもたないだろうし、ちょうどいいランニングタイムだろう。

バードストライク直後に引き返せば間に合った、というシミュレーション結果にサリーは追い詰められてしまうのだが、それに対して「状況把握と決断までの思考に30分以上はかかり、シミュレーションはその「人的要因」を外している」という反論は、逆に言えばその30分で「正解」が全く違ったものに変わっており、刻一刻と「正解」が変化する状況判断の極度の難しさと機長の判断の高度さを如実に表している。「事件は現場で起きている」のだ。

面白かったのは、有名人となったサリーに対するニューヨークの人々の接し方で、彼らはサリーを英雄として崇拝するというより「俺たちの仲間がすごいことをやったぜ」と親近感たっぷりに誇っているところ。これが日本だと、有名人というのはもっと近寄りがたく、崇拝に近いもち上げられ方をするのでは、と思った。

この事故の起こった2009年付近のアメリカは、イラク戦争やリーマンショックによる金融危機により人心にも不安や不信感が拭いきれず、「ハドソン川の奇跡」とはそんな中で新年早々に駆け巡った久々の朗報でもあった。サリーへの過剰とも言える英雄視は、そういったアメリカ社会の鬱屈に対する反動ともとれる。

『ハドソン川の奇跡』は現在アマゾン・プライムビデオにて見放題サービスで見ることができる。(2020年7月現在)

 

 

 

【ネタバレ感想】映画「キングダム」体のキレで人が死ぬ

映画「キングダム」5.29 金曜ロードショーにてノーカット地上波初放送!

(C)原泰久/集英社 (C)2019映画「キングダム」製作委員会

「キングダム」(2019.日本)

初っ端から脱線するが、2006年の平成仮面ライダーシリーズ「仮面ライダーカブト」を見ていた方は、作中に突然前触れもなく現れて、変身もせずに素手でガタックをボコボコに殴りだした、異常に強い敵キャラクターがいたことを覚えているだろうか?

その場面のインパクトたるや、明らかにその男だけ動きが「浮いている」印象だった。特に特別なバックボーンも由来も持たない、役柄上ではやられ役に過ぎないはずのいち怪人が、しかしただひたすら生身のまま強いのである。というか、怪人に変身すると弱くなる。

この仮面ライダーを生身で圧倒する男の名が坂口拓だと、本当に遅ればせながら知ったのが、この映画「キングダム」を見た後だった。狂気の人斬り「左慈」の、その殺陣の異常なまでのキレに既視感を覚え、思いあたったのだ。「ああ、この男はあのライダーボコボコ男だ」と。顔はいまいち覚えていないのに、殺陣のキレで思い出すなんて初めてだ。

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©石森プロ・東映


現在(2020年7月)Amazonプライム・ビデオにて見放題サービスになっている、映画「キングダム」。原泰久が現在も連載中のコミック「キングダム」の実写映画化作品だ。

中国の春秋戦国時代を舞台に、将軍への野望に燃える若者信、後に史上初の中華統一を成す始皇帝となるエイ政を軸に繰り広げられる歴史スペクタクル絵巻。

実写化にあたっては、原作者原泰久自ら脚本を起こし、原作1巻から5巻までの内容を過不足なく、そしてかなり忠実に2時間半の活劇に落とし込んでいる。

監督は「GANTS」「いぬやしき」「アイアムアヒーロー」など日本のコミック実写化を多数手がけてきた佐藤信介。

アクション監督は佐藤監督と多くの作品で手を組んできた下村勇二。ゲーマーの方には「デビルメイクライ」や「無双」シリーズのオープニングムービーのアクション監督をやっている人と言うとわかりやすいかもしれない。

キャストは、主人公の野望に燃える直情径行型剣士信に山崎賢人。信の親友漂と後の始皇帝エイ政のダブルキャストに「仮面ライダーフォーゼ」でメテオを演じた吉沢亮。「山の王」として屈強な戦士を束ねる女王楊端和に長澤まさみ。その他に橋本環奈、本郷奏太、高嶋政宏、大沢たかおなど実力派が脇を固める。

キャストについての感想は、まずやはり長澤まさみが頭一つ抜けてよかった。いい意味で本人のイメージを裏切り、屈強な山の戦士を実力で束ねる女傑としての美しさと強さをしっかり表現していた。容姿ももちろんだが、意外だったのがその声音の貫禄と通りの良さ、命令口調の響きの心地よさ。しっかり芯があってよく通り、鳥肌が立つほどかっこいい。長澤まさみに貫禄を感じる日が来るとは。個人的には、「クローズゼロ」でそれまでのイメージを覆してきた山田孝之を見た時のような驚きを感じた。

吉沢亮は近年人気が急上昇したイメージがあるが、「フォーゼ」で見せた生身のアクションを知っているのでアクションに信頼がおけるのはわかっていた。しかしながらダブルキャストを表情と声音で演じ分ける演技力、エイ政の冷徹さと孤独、内に秘めた熱情とまっすぐさをあくまでクールに演じた実力は、長澤まさみと共にやはり今作のMVPにふさわしい。

そして主人公山崎賢人だが、どうしても信としては顔の甘さがぬぐえず、周りを固めるキャスト陣が本当に違和感なく世界を作ってくれている中で、その違和感がつきまとった。しかしながら、この物語は基本的に駆け出しの信が曲者ばかりの周囲とわたりあっていくものであり、その点から見れば、実力派ぞろいのキャスト達に挑むかのような演技はたしかに主人公信であったともいえる。

その他では高嶋政宏の昌文君は本格的すぎて、他のキャラがアクロバティックに派手アクションきめてる中でひとりプライべートライアンみたいな悲壮感を漲らせていたり、たぶん唇がキャスティングの決め手になったと勝手に思っている大沢たかおの王騎将軍は少ない出番ながら作りこんでいた印象。王騎が戟を振るう無双シーン、よく見ると腋毛を処理していた(ように見えた)のは、原作ではどうだったか知らないが王騎なら処理してるよな、と謎の納得をしてしまった。

映画全体としての方向性は、贅沢な画作りながらあくまで「実写漫画」として作られており、リアリティよりは荒唐無稽でも派手さを重視する方向。コミックの世界観を実写に落としこむにあたり、あくまで実写としての画の面白さ、美しさを目指して作られている。人はワイヤーやCGでばんばん飛ぶし吹き飛ぶし、物理学的にありえない動きもする。それらに違和感がないかというとウソになるが、特にアクションのスピード感は素晴らしく、荒唐無稽ながら見入ってしまう剣劇シーンが数多くみられる。

その最たるシーンが、冒頭にも書いた坂口拓演じるラスボス「左慈」とのバトルだ。

映画『キングダム』左慈役 坂口拓 Tweet まとめ

(C)原泰久/集英社 (C)2019映画「キングダム」製作委員会

そもそも原作では、左慈→ランカイという順に登場し、ラスボスの立ち位置はランカイだったのだが、映画ではランカイがまず倒され、ラストに立ちはだかるのが左慈に変更されている。その理由は見れば瞭然、左慈が、坂口拓が強すぎて、ランカイとのバトルシーンが見劣りしてしまうからだ。この順番の入れ替えは大正解だろう。ひと息で3人の喉を切り裂き、敵が一太刀入れる間に二太刀で返し、居合で巨大な柱や取り巻きの文官どもごとぶった切る。あくまで淡々とした表情で、無情に剣を振るって屈強な戦士たちを屠っていく。明らかに異質で異次元の動きのキレ。見ている我々にも、信と左慈の、そして山崎賢人と坂口拓の実力差が圧力となってのしかかり、息苦しいほどの戦闘が繰り広げられる。もちろん信はこの左慈に勝たなくてはいけないのだが、なんか勝つと嘘臭くなるのではと心配してしまう。それほど、動きが違いすぎて勝てる要素が見当たらない。最後の逆転はしっかり修行の成果を発揮して勝負を決めたので綺麗な終わり方ではあったのだが。ともあれ、改めて今後のアクション映画では坂口拓というアクション俳優を見逃してはならないだろう。というか、今まで見逃していて本当に自分のにわかぶりが身に染みた。ちゃんと映画見よう。

続編製作もはじまっている「キングダム」。坂口拓の左慈は死んだので続投は難しいだろうが、「ザ・レイド」のヤヤン・ルヒアンみたいに、1作目で死んでも別の役でまた出てきてくれないかな、と望んでしまうくらいに気に入ってしまった。

映画「キングダム」は現在(2020年7月)アマゾン・プライムビデオで見放題対象作品になっているので、未見の方は続編前に見ておくことをおすすめする。今作はコミック未読でも問題なく楽しめる物語になっている。

 

「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」

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「スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」(2019)

監督:J.J.エイブラムス(「スーパーエイト」「SWフォースの覚醒」)

脚本:J.J.エイブラムス、クリス・テリオ(「アルゴ」「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」)共同脚本

製作:J.J.エイブラムス、キャスリーン・ケネディ(ルーカスフィルム社長)、ミシェル・レイワン(バッド・ロボット)

音楽:ジョン・ウィリアムズ

撮影監督:ダン・ミンデル 

プロダクションデザイン:リック・カーター、ケヴィン・ジェンキンス

衣装:マイケル・カプラン

クリーチャー特殊効果:ニール・スキャンラン

視覚効果スーパーバイザー:ロジャー・ガイエット

製作会社:ルーカスフィルム、バッド・ロボット・カンパニー

配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ

キャスト:デイジー・リドリー、アダム・ドライバー、ジョン・ボイエガ、オスカー・アイザック、ビリー・ディー・ウィリアムズ、キャリー・フィッシャー、マーク・ハミル、イアン・マクダーミド

 

以下ネタバレ含みます。

出遅れましたが観てきました、9部作完結編!

まずは世界最高峰の予算、物量、人材を集めて作り上げられた映像の1カットずつを眺めているだけで楽しいので、基本的に退屈するということはない。そのうえで、物語的には色々とアレなところもある。

特に重要な役どころであるカイロ・レンの行動原理がいまいち筋が通っていないように見えるし、もちろんそういう迷える若者というキャラクターであるのはわかるのだが、それにしてもレイアが一言「ベン」と呼びかけただけでころっと改心してしまうのは、ちょっとちょろすぎるのでは。

パルパティーン復活もどうしても場当たり的な印象をぬぐえない。(最もこの再登場のおかげで、イアン・マクダーミドが全世代の物語に出演することができたという功績もあるのだが)。スノークのことは忘れるんだ。

しかし、とにもかくにも、1977年から始まり約40年、アナキン誕生から作中年月にして約80年近くに及ぶ壮大な物語、世界空前の大ヒット作にして全9部作という超巨大プロジェクトが完遂されたことの意義の前では、ただただ頭を垂れるしかない。

「最後のジェダイ」制作後、メインキャストの一人でありレジェンドでもあるキャリー・フィッシャーが亡くなるが、これも40年という長きにわたるプロジェクトならではの事態といえる。今作のキャリー・フィッシャーは「ローグワン」のターキンのようにCGで作り上げたものではなく、過去作の未採用カットをもとに作り上げたものらしい。(ごく一部をキャリーの娘ビリー・ラードが演じることもあったという。ビリーはレジスタンスのコニックス中尉としても出演。母と激似!)

https://theriver.jp/tros-leia-billie/

両親に捨てられたと思い込み、自分が何者であるかも知らず、寄る辺なく生きるしかなかったレイが、旅の果てにタトゥイーンで「スカイウォーカー」という名をひとり選び取るラストシーン。

「遠い昔、はるか彼方の銀河系で」繰り広げられてきたジェダイと人間達の歴史が、一人の少女の旅の果てにそっと重なる結末は、とても詩的で美しいラストでした。

 

以下パンフレット情報(通常版のみ)

1100円、64p(広告抜きで)

・あらすじ(劇中不足している部分の補完もあり)

・キャラクター紹介

・舞台の惑星紹介

・メカ、武器、アイテム紹介

・キャスト、スタッフインタビュー

・高貴準三「スカイウォーカーのレガシー」

・「スター・ウォーズ」銀河におけるスカイウォーカー一族中心の年表

・小林淳「ジョン・ウィリアムズと『スター・ウォーズ』」

・コンセプトアート集(6ページ)

・相馬学「フォースにバランスをもたらす者 スカイウォーカー家の歴史」/シリーズ作品解説

・末尾16ページがグッズ広告

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